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昔、人気のコメディアンが「わかっちゃいるけど、やめられない」と調子よく歌って一世を風靡しました。ご記憶の方も多いのではないでしょうか。サラリーマンの飲酒や競馬といった息抜きが、そんなつもりではなかったのに、気がついてみれば、酔っ払ってベンチで寝ていたり、ボーナスを使い果たしていたり・・・。 後で冷静になって一応は反省をするのです。こんなことしてちゃ身体に悪いし、馬で金儲けした人なんて聞いたこともないし、そもそも俺が若い娘にモテる訳ないし・・・。 でも暫くすると、同じ誘惑にまんまと乗って、同じことを繰り返す。誰でもが思い当たることですし、誰もがやめられなくて、自分に呆れつつも、非難できない訳です。だからこの歌は大流行したのですよね。 「わかっちゃいるけど、やめられない」(今、心の中で「あ、ソレっ」と合いの手を打った人、手をあげて。 因みにこの歌の作詞は前任の東京都知事です)。

クリスチャンとて事情は同じです。私達も同じ失敗を何度も繰り返しています。 悪しき思いに支配され、口にしなくてもよいことを口走り、人を傷つけ、自分を傷つけています。悪い習慣から抜け出せない人もいるでしょう。ふしだらな肉の思いや、むさぼりの誘惑に戦わずして負けてしまう人なんてザラにいます。パウロも自分自身に嘆いています「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」(ローマ7:15) 

私達はこれをどう理解すればよいのでしょう。パウロは言葉を選びながら、次のように分析しています「私の身体の中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、身体の中にある罪の律法のとりこにしているのを見出すのです」(ローマ7:23) パウロは自分で自分のことを「本当にみじめな人間です」と絶望しています。パウロの絶望の原因はどこにあるのでしょう。それはパウロが自分の力で清くなること(聖化)を求めたことに他なりません。 

私達も同じです。私達は罪人に過ぎないわけですから、御霊によらなければ、私達自身がいくら努力しても、それは達成することは出来ません。 どんなに修行しても、訓練しても、罪の性質が私達の中にある以上、根本的な解決にならないのです。

今朝のメッセージは「ローマ人への手紙7章」からでした。7章から8章にかけて、パウロはクリスチャンの聖化について、罪の律法の支配から、神の律法に仕えることを教えています。

今朝の礼拝メッセージはこちらで聞いてください。


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by covenanty | 2011-05-01 17:21 | 教会行事・集会 | Comments(1)

律法からの解放

しかし、今は私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。(ローマ7:6)

キリストが来られる前、(そして今も!)ユダヤ人を社会的、精神的に縛っていたものは神様がモーセを通して与えられた「律法」でした。その「律法」は400年もの間エジプトで奴隷生活を余儀なくされていたユダヤ人に、神の民として、正しく、幸せに生きるためのルールとして愛をもって与えられたものでした。

しかし、規則や規定にはよくある話ですが、その「律法」の運用が人に委ねられると、その「法の精神」は長い間に歪んだものとなり、民はそれを守るのに汲々とし、本来神様への従順を表すものであったものが、いつの間にか本質を離れ、人々を縛り付けるものになっていたのです。

パウロは「ローマ人への手紙」を通して、ユダヤ人にとって救いに至る道であった「律法」が、イエス・キリストの十字架によって終わりを告げ、律法から解放された、新しい救いの道が開かれたことを伝えています。

最初は「良きもの」であった規則やルールが、次第にその本質を離れ、人々に苦痛や不自由を与えている例はユダヤ人の「律法」に限りません。今日のメッセージの中でも紹介されていましたが、日本に於ける様々な習慣や因習の中にも、人々を不自然に縛り付け、決して私たちを幸せにしていないものがあります。因習的な社会習慣が色濃く残る地方で、常に人の顔色を伺い、人から後ろ指を指されないかを心配して、その社会習慣に従ってきた婦人。キリストを信じた瞬間に、それまで親戚や近所の人の目をひたすら恐れていたのですが、神様のみを見上げるようになり、それら全てから解放された!と新しい生き方が出来るようになったというのです。

キリストを信じたら、それによって色々な「戒律」が押し付けられて、今までのような自由な生き方が出来なくなるのではないかと言われる方がおられます。実は全く反対で、コトの本質が示されて、人々を縛っている意味のないもの、見かけだけのもの、怪しげな、訳の分らないものから解放されて自由になれます。それは必ずしも社会的習慣だけではありません。自分自身を縛っているセルフイメージの高さ、自己意識や自己欺瞞、虚栄心や偽善からも自由にされるのです。まさに神様からの恵みであります。


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by covenanty | 2011-04-03 17:24 | 教会行事・集会 | Comments(3)

それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠の命を得させるためなのです。 ローマ5:21

今朝の礼拝メッセージは、ローマ人への手紙5章から『アダムとキリスト』というタイトルでした。なかなか難解で理解しにくい箇所ですが、極めて分かりやすい三段論法で人間の罪と救いの恵みについて解き明かされました。

すなわち、「死」は「罪」の結果、全ての人間に入ったものである。
「罪」は、「律法」によって定められるものである。
しかし、モーセ以前の「律法」の無い時代でも人間には「死」があった。
つまり、「律法」以前にも、人間は「罪」を負っていた。
さらに「律法」によって、人間の「罪」の意識は益々増していくことになる。
それによって、主の救いの恵みも、その膨れていく「罪」を覆って余る程に大きなものとなる。

ああ言えばこう言う、理屈っぽい性格で、つい色んなことを理屈で考えてしまう癖のある私ですが、スッキリとお腹に落ちる論理展開のメッセージでした。 理屈っぽい方も、そうでない方も、是非今日のメッセージを聞いてみて下さい。

ところで、ニュージーランドのクライストチャーチでの地震被災者の救助活動が打ち切られたことがニュースになっていました。被害者の家族からすると、「そんなに簡単にあきらめてくれるな」というところでしょう。 米国で9-11の後、被害にあって行方不明になった駐在員の夫を捜し求めて、滞在期限が切れるまで毎日マンハッタンを当ても無く彷徨い続けていた日本人婦人のことを思い出します。 もし、未だ救える命があるのなら主がどうか救い出して下さるように、そして被害者となった方々については、その魂をねんごろに取り扱って下さり、また残されたご家族の上に癒しと慰めを与えて下さるようにお祈りします。

私の知人で、クリスチャンを攻撃することを目的に、そのような災害の犠牲者を例に出して「神がいるのなら、何故彼ら善男善女をそのような被害に会わせるのか」と言い放つ方がおられます。 

何故善人に悪いことが起こるのか? 当然です。神様の前に善人は居ないからです。シロアムの塔倒壊に巻き込まれた18人の例をあげるまでもなく、私達1人1人の生殺与奪の主権は神様にこそあり、神様の恵みと哀れみなくしては、私達は1日たりとも生きながらえることは出来ないということをお忘れでしょうか。

世界各地で起こる地震や津波などの自然災害は、これは疑う余地もなく神様の人間に対する怒りを表すものです。ですから本来は「何故彼らがこんな目にあうのか」と、上から目線で嘆いたり哀れんだりする余裕は誰にもなくて、私達もいつ同じように神様の怒りに触れてもおかしくはないのです。

もう1つ、「世界中に災害や、苦難や、貧困や、病気や暴力が満ち満ちているから、愛なる神など存在しないのだ」と主張する人たちの多くは、ご自分達は非常に恵まれた、安全で快適な環境で、ぬくぬくと贅沢な生活をしながら神様を否定していることを覚えたいと思います。一方で非常に多くの人々が、本当の苦しみ、悩み、貧しさや病気の中にありながら、その苦難の故に神様への信仰を強めているということも事実なのです。何故ならその人たちは、自分達が流す涙は、そのままイエス様が流される涙であることを知っているからです。苦悩や痛みとは全く関係のない筈のその方が、神としての特権を投げ捨て、私たちの為に、血と、涙と、痛みと、蔑みと、裏切りと、悲しみと、絶望と死を舐め尽くされたのです。そして今も私たちと一緒に涙して下さるのです。

ある本に出ていました。「懐疑心とは、蚊帳の外から悲劇を見ている傍観者から生まれるものであって、苦悩の只中にいる人々はそういった気持ちを持たない。事実、不屈の信仰を生み出したのは、世界最大の悲劇の数々に他ならない」と。

自然災害についてもう1つ。仕事の関係で再保険会社について調べることがあったのですが、業界最大手のミュンヘン再保険会社が出しているレポートによると、1980年以降、世界で甚大な被害をもたらした洪水の発生頻度はそれ以前の3倍になっており、ハリケーンやその他台風、嵐の発生頻度は2倍になっているそうです。 聖書には「終わりの時」が来る際の前兆が預言されています。
いよいよ主のご再臨が近づいてきているのでしょうか。

by oveja negra

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by covenanty | 2011-03-06 17:52 | 教会行事・集会 | Comments(1)

信仰の祝福

そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。
それは恵みによるためであり、こうして約束が全ての子孫に、
すなわち律法を持っている人々にだけでなく、
アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。
「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、
アブラハムはわたしたち全ての者の父なのです。 (ローマ4:16)


今朝の礼拝メッセージは「信仰の祝福」でした。
本来異邦人である私達日本人にも、神様の恵みの故に、イスラエル人に与えられた約束の実が与えられ、神様との関係が回復されて永遠の命まで保証されていることの不思議さと、想像を絶するような、神様の壮大なご計画を思う時、身震いしそうな感覚に捕らえられます。

神様が救いの民としてアブラハムとその子孫を選ばれ、国としてのイスラエルが叛いて人々が離散する中で、神様の救いは文字通り世界中に広がっていき、信じる全ての人が「アブラハムの子孫」とされた後、最後の最後に再び国として集められた、神様の初子であるイスラエル人に国民的悔い改めと救いが与えられるということが既に定まっているのです。

神様の救いは、お伽話や絵空事ではなく、人類をお造りになられた当初からのご計画です。それ故に恵みの時には終わりが来ます。人類の歴史の始まりを精緻に記述している聖書には、その歴史の終わり方も明確に書かれています。反キリストが現れ、偽預言者が起こり、大患難時代が訪れて、人類最後の大戦争が起きるのです。

      *      *      *      *      *      *

今、エジプトで連日何十万人もの人々による反政府デモが起こり、30年間に亘って実質独裁政治を行ってきた大統領が追放されそうになっています。勿論短絡的にそれを人類最後の大戦争に繋げて考えるつもりはありません。

以前サンフランシスコに勤務していた時、オフィスにイランのパーレビ国王の親族の1人という女性が働いていました。ホメイニのイラン革命が起きた時、親に連れられ命からがら米国に亡命してきたのだそうです。革命前のイランは、親米路線を敷き、潤沢な石油資源を使って国の近代化を進めていたといいます。イスラムの国でしたがイスラエルにも友好的でした。パーレビ国王はその在任中、彼らの先祖アケメネス朝ペルシヤが新バビロニアを滅ぼした際に、ユダヤ人捕囚らを解放して故郷に帰し、その神殿を再建させたと記録されたクロス王の円筒印章を、「世界最初の人権宣言」だとして国連に寄贈しています。

ご存知のように、革命後イスラム原理主義を貫くイランは、イスラエルの生存権を認めないと公言、レバノンのヒズボラはじめイスラエルを取り巻くアラブ諸国に武器を供給し、核爆弾まで開発している疑いがある訳です。

マスコミの中には、チュニジアやエジプトで起きている動きを、長年の独裁制に対する民主化運動と評価しているフシもありますが、良し悪しはともあれ、エジプトの親米・親イスラエル政権が倒れた後、国と人々を支える精神的支柱としてイスラム原理主義が台頭してくるのは想像に難くありません。

「アブラハムの子孫」である私達にとって、イスラエルは特別な国です。
地政学的なことは、余りにも複雑すぎて私には判断がつきませんが、とにかくこれらのことも、歴史を支配しておられる神様の御手の中で起きていることだと覚え、分からないながらも、イスラエルのために、その人々の平和のために祈らざるを得ません。

by oveja negra

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by covenanty | 2011-02-06 19:17 | 教会行事・集会 | Comments(0)

自分の日を正しく数える

あと364日・・・。
昨年末に封切した『宇宙戦艦ヤマト』ではありません。

それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。
そうして私たちに知恵の心を得させてください。  (詩篇90:12)


あけましておめでとうございます。
1月2日今年最初の礼拝がもたれました。
その時の土屋順一牧師のメッセージが「自分の日を正しく数える」ことでした。

1週間前の日曜日の夕方、和歌山に出張しました。
夜中23:00時頃和歌山に辿り着き(大阪―和歌山って結構時間がかかるのですね)、翌月曜日9:00に和歌山市内でミーティング、タクシーを飛ばして何とか時間通りに電車に飛び乗り、11:30新大阪でミーティング、13:00に茨木でミーティング、15:00には大阪に戻り17:00までミーティング、すぐさま新幹線に乗って20:00に東京でお客さんとの忘年会の2次会に滑り込むといったスケジュール(勿論夜の宴会まで何も口にしていません)。「点と線」(松本清張)ばりに時刻表を実地検証するような1日でした。

昨年1年を振り返ると、出張しようがしまいが、毎日が同じようなバタバタとした日の繰り返しです。兎に角忙しい。朝早くから夜遅くまでただひたすらに働くだけで終わりです。私達サラリーマンだけではないでしょう。家事と子育て(とパート)に追われる主婦の方、学校の先生、卒論や就活に勤しむ学生さん達... 皆それぞれに目先のことに心奪われ、その魂は文字通り「忙殺」されています。最近では小学生までが塾のスケジュールで一杯の「ビジネス手帳」を見て溜息をついているとか。

例年年初には「今年は余裕を持って」とか、「仕事以外に○○する時間を持って」とか決心するのですが、そう思っていられるのも正月3ケ日だけでした。
しかし、今年このメッセージを聞いた以上は、1日1日を神様から頂いた日として、それこそメッセージにあったように、毎朝「神様、あなたのご再臨は今日なのですか」と尋ねながら1日1日を迎えるようにしたいと思います。

今年ももう2日経ちました。そこで、冒頭にあるように今年の残り日数を毎日カウントダウンしてスケジュール帳に書いていこうと思います。

ところで年明けの、のんびりとした時間の中、教会に来ている子ども達の相手をして暫く過ごしました。
「2月29日生まれの子は損だよね。お誕生日が4年に1回しか来ないもんね」
「マリという名前の子はかわいそうだよ。
だって水田さんという人と結婚したら『水たまり』になっちゃうんだよ」
「そうそう、小田さんと結婚したら『おだまり』になっちゃうしね」
そういえば、私にもそんなことを言いながら毎日を過ごしていた頃がありました。
あの頃は1日が長かったなぁ。

by oveja negra

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by covenanty | 2011-01-03 11:11 | 教会行事・集会 | Comments(2)

4ケ月のサバティカルリーブを終えて、土屋順一師が講壇に戻ってこられました。今年は私たちの教会が開拓伝道を始めて60周年、順一師が伝道を始められて50周年、つまり「ヨベルの年」に当たる訳で、教会の最も大切な「周年記念」として先生にお休みを取って頂いたのです。

お休みから戻られて最初のメッセージは、「人は死んだらどうなるか」という、実にストレートな、本質的、且つ具体的なお話でした。

「死ぬ」とはつまり、私たちの肉体と、霊とが分離する状態のことを言います。認めたくない進化論者もおられるでしょうけれど、人間は本来霊的な生き物で、肉体と霊とが一緒になってアイデンティティーを保っているのです。 日本を代表するアニメ監督である宮崎駿氏の作品は「トトロ」や「もののけ姫」「千と千尋」など霊の世界を描いたものが多いのですが、彼は実は人間は霊的な生き物であることを見抜いており、また観客の方も無意識的に、自然に、そのような「懐かしい」世界観に引き込まれているのかもしれません。

肉体から分離した私たちの霊はどうなるのでしょうか。 それはキリストを信じるクリスチャンの場合と、キリストを信じない人達の場合とに分けられます。

クリスチャンの霊が肉体から分離すると、それはたちまちのうちにイエス・キリストと一緒のところに引き上げられます「まことに、あなたに告げます。あなたは今日、私と共にパラダイスにいます」(ルカ23:43)と、悔い改めた犯罪人にイエス様が告げられた通りです。 そしてイエス様のご再臨の時、私たちには新しい、永遠に朽ちない肉体が与えられて(新しい肉体ですから、手で触れることの出来る物的な肉体です。フワフワと霊のまま浮いている訳ではありません)、イエス様とともに生き続けるのです。

一方クリスチャンでない方の場合はどうなるのでしょうか。聖書にはその方々に起こることも、冷静に、また冷徹に記載されています。 神様は人を愛するが故に人に自由意志をお与えになりました。神様を否定し、神様に背を向けるのもその人の選択です。しかしその選択の結果は、自分で摘み取らなければならないのです。 

漱石にしても、鴎外にしても、芥川や太宰にしても、昔の「知識人」と言われる日本人は、「西洋」を理解するため、あるいは人生を理解するために聖書を熱心に読み込んでいたことが、その残した文学作品からも伺い知れます。 情報に溢れ返った現代日本では、高等教育を受けた人でも聖書に触れることは殆どなく、何が書かれているのか読んで知っている訳でもないのに、自分が神になったかのような気分で「そもそも一神教というシロモノは・・・」と評論したがります。 大変愚かで危険なことだと思います。
是非このメッセージを聴いて、1人でも多くの方に聖書を読んで貰いたいと思います。

ところで、新しい肉体を与えられる時、私たちにはもう結婚する必要がないってご存知でした? みんな永遠に生きる訳ですから、子供がどんどん産まれてくることもないのです。「復活の時には、人はめとることも、嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです」(マタイ22:30)と書いてあります。そのことで妻と議論したことがあります。

「復活したら、もう僕たち夫婦ではなくなるんだって。知ってた?」
「でも、かつて誰だったかはお互いに判るみたいだから、いいんじゃない」
「いや、でも、夫婦でなくなるなんて、ちょっと寂しくない?」
「あら、いいんじゃない。ずっといいお友達でいましょうよ」

この人はこの言葉が如何に純な男性を傷つけるかを知りません。


by oveja negra

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by covenanty | 2010-10-03 21:05 | 教会行事・集会 | Comments(0)

生きることはキリスト

ピリピ人への手紙を書いた時、パウロは投獄されていました。 投獄といっても、ローマ兵の見張りがついた軟禁状態だったようですが、そのことすらパウロは喜んでいたといいます。 また福音を伝える同労者である筈の他の宣教師や伝道師の中には、パウロが身動きが取れないことをいいことに、彼に対する妬みや党派心をあらわにして伝道する者も出てきました。

それでもパウロは喜んでいました。普通なら到底伝道の対象になりえない、ローマの親衛隊やその他の人々にも伝道でき、ここぞとばかりに自分達の栄光の為に伝道する人達によっても、キリストを宣べ伝える働きが前進するからだと言っています。

キリスト教が他のご利益宗教と違うところの1つは、私たちはこの世では神様から祝福とともに患難や苦労も与えられるということを、予め宣告されていることだと思います。 

「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです」 (ピリピ1:29)

しかし信仰を持つ者は、主にあってその苦しみに何の意味があるのか気付かされ、またその苦しみによって自分自身の傲慢や不遜が示され、また多くの場合、結果的に自分の信仰や、性格が練られ、神様により使って頂き易い器に変えられていることも(しばしば後になってからですが)気付かされます。

ですから、その苦しみや患難をいたずらに恐れたり、逃げ惑ったりすることなく、すべて主からの賜物と受けとめて、自分の全人格をもってそれに対峙し、浸ることが出来るようになります。 パウロは「生きることは、キリスト、死ぬ事もまた益です」(1:21)と言っています。もっともそれは、偽善的な自己犠牲の精神や、ストイックな精神主義や、心頭を滅却するような修行によるものではありません。 人間にはそんなことは土台無理なのです。 たとえ何回か成功したとしても長続きはしません。「あなたがたの祈りと御霊の助け」(1:19)による他はなく、逆にいうと、「祈りと御霊の助け」があれば、「私を強くして下さる方によって、どんなことでも出来るのです」(4:13)

何を偉そうに、とお思いになる方もおられるでしょう。 でも大丈夫、神様からの祝福と困難はワン・セットなのです。 これまでも、これからも困難は起こり続けるでしょうし、神様がそれが起こるのをお認めになっている以上、それから逃れるオプションはありません。 「祈りと御霊の助け」の中で、それを背負っていくことになるのでしょう。

ところで、「祈り」といえば、私の娘はロスアンゼルスで、あるメガチャーチ付属のナーサリー(保育園)に通っていました。 そのナーサリーの先生方は勿論みんなクリスチャンで、キリスト教的な価値観をもって子供達の保育をしていました。 ある時その娘が家で「私はお母さんのお腹から産まれてきたの。でもお母さんのお腹に私を置いたのは神様なの」と英語で教えてくれたときは、さすがに驚き、咄嗟には言葉も出ませんでした。 ただ娘を抱きしめながら、そんな素晴らしいことを、しかもさりげなく教えてくれる先生と神様に感謝したことを覚えています。

ちなみにそのナーサリーは、金曜日は午前中だけの半ドンでした。 午後からは職員会議だからというのです。 で、その職員会議ですが、なんと午後いっぱいかけて、先生方が200人強の子供達1人1人の名前をあげて、毎週祈っているというのです。 それを聞いた時には目がうるんでしまいました。

日本にも、数多くの宣教師や宣教団体によって所謂ミッションスクールが、それこそ保育園、小学校から大学まで建てられています。 すっかり「ブランド化」してしまった学校もあり、その在学生をみても、卒業生をみても、建学の精神、その学校が本来何を伝えるために建てられたのかと疑ってしまうような学校も少なくありません。 また自分の子どもに偏った価値観(キリスト教的価値観のこと!)を教えるのはけしからんと抗議する父兄までいるといいます。

現在区立小学校に通っている娘の周りには、ブランド・ミッションスクールの中学校のお受験を目指す子どもや親たちがたくさんいます。 たとえ何も分からないまま、ブランドやファッションだけでミッションスクールと係わりを持つ子どもや大人たちが大勢いたとしても、それらの学校が、本来の建学の目的に立ち返り、福音を伝えることを第一のミッションとして、そういった人達にしっかりと福音を語ることができるならば、パウロのように嘆かわしい事態を、かえって喜ぶことが出来るのにと思いました。

by oveja negra

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by covenanty | 2010-08-01 18:43 | 教会行事・集会 | Comments(2)

私の神、私の主

本日の礼拝は、サバティカルリーブ中の土屋順一先生に代わり、KGK(キリスト者学生会)関東地区主事の大嶋重徳先生がメッセージを取次いで下さいました。

12弟子の1人、デドモと呼ばれたトマスが、イエス様がご復活されたという報告をすぐに信じることが出来なかったことを、彼の疑り深い性格の為というよりは、彼が当初弟子達の交わりから離れ、共に居なかったことに原因を求めておられたのには、(パウロではありませんが)目からウロコが落ちる思いでした。

疑いがあってもいい、信じられなくても、迷っても、判らなくてもいいのです。 信仰者の群に、教会に留まっていれば、神様が時を与えてくれます。

トマスでも「イエス様の手の釘あとに指を入れて、脇腹の傷に手を突っ込んでみるまでは信じない」という暴言(だって、そうでしょう。相手は神様ですよ!)を吐いてから8日間、「信じたいけど、信じられない、ホントだったら嬉しいけれど、否、簡単に騙されないゾ」と、仲間と一緒に喜べず、悶々とする時間を与えられたのです。

今、神様を信じているクリスチャンの方々にも、誰にでも、迷ったり、疑ったりの「8日間」が与えられていたのです。 いいえ、今でもその「8日間」の中にいる方もおられるかもしれません。 神様はそんな「見ずに信じる」ことの出来ない私たちを、そのままに捨て置くことなく、愛をもって、私たちが神様を求めてくるのを、忍耐強く待って下さり、祈りに応えて下さる方なのです。「8日間」の後に、必ず光を示して下さる方なのです。

求めなさい。そうすれば与えられます。
捜しなさい。そうすれば見つかります。
叩きなさい。そうすれば開かれます。
(マタイ 7:7)


ところで、キリストの神様が、他の偶像の神々と際立って異なるところは、私たち人間を愛されるがゆえに、その神様であられることの栄光をお捨てになって、人間よりも身を低くされ、最後には、人間の手にかかって死んで下さることまでお出来になることです。 愛する人間の為に、すべてを捨てて、人間の罪の手に身をゆだねられる、こんなへりくだった偶像があるでしょうか。

このような神様の謙遜に対し、一方人間の方はというと、神様が終わりの時まで沈黙されていることをいいことに、やりたい放題に、神の名を汚し、卑し貶め、何度も何度も殺しています。 それは神様に対する自らの優位性を主張し、自分の栄光を求めるが故です。

最近新聞の書籍広告に、日本人の脳機能学者(最近「脳」とか「脳科学」というと「新興宗教」の響きさえ感じます)が、「1991年に科学によって神は居ないことが証明された。神は人間の脳が必要に迫られて創造したものだ」という趣旨の本を出したと出ていました。

このような「人間の知恵」を引くまでもなく、私たち自身は一体何度、キリストを裏切り、キリストを否定し、また十字架に付けたことでしょう。 それでも、へりくだれない私たちの叛きの罪を赦して下さる神様のご愛は、人間の「脳」が出来る理解と想像を遥かに超えたものです。 神様の恵みの「8日間」の意味を、キリスト者も、まだ確信が持てない方も、噛みしめたいと思います。

十字架の上に我は仰ぐ
我がため悩める神の御子を
妙にも尊き 神の愛よ
底いも知られぬ 人の罪よ
(賛美歌262番)


by oveja negra


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by covenanty | 2010-07-04 17:54 | 教会行事・集会 | Comments(2)

7つめの御霊の実は「誠実」です。
かつて正田美智子さんが、当時の皇太子・明仁親王を評して「ご清潔でご誠実」と記者会見で仰ったそうですが、誠実ということばは、対象を必要とする言葉でもあります。つまり、誰に対して「誠実」であるのか。男女間のことであるならば、「テニスコートの恋」相手の自分に対して、浮気心のない、一途な男という意味でありましょう。

ビジネスの世界でも、民法が定めるところの「信義誠実の原則」、いわゆる「信義則」という言葉がありまして、取引関係において、お互いに信頼を損なわないように行動すべきであるという、やはり取引の相手方という「誠実」の対象がある訳です。

では民法ではなく、聖書に書かれている「誠実」の対象は何なのでしょうか。
まず1つには神様に対して「誠実」でなければなりません。「誠実」は神様のご性質でありますから、そのご性質を受継いだ私達も、神様のみことばに対して、神様のみ旨に対して誠実に、忠実にあらねばなりません。

それだけではありません。神様が私達に委ねて下さったものに対しても誠実を尽くさなくてはならないのです。すなわち、それぞれに与えられている賜物、時間(私はこれをナイガシロにする天才です)、お金(これも・・・だなぁ)、言葉(不誠実の極みです)、家族(あぁ、妻よ、子よ)、仕事、など等。 神様から賜ったものを賢く管理することは、すなわち神様から課された「誠実」度のテストなのです。 

今日のメッセージは、普段実に曖昧に、また余り考えずに口にし、聞き流しているこの言葉の定義をじっくり考える機会となりました。

ところで、先日、仕事で出入りしている取引先に勤務のある女性に、私がクリスチャンであると証したところ、「えっ、東京カベナント教会に行かれているのですか。私、実はその教会のホームページをいつも見ているんです」と言われました。 改めて見ると、その方は、それこそ実に誠実そうな、優しい、温厚なお人柄の大変美しい、素敵な方でした。 「そこのブログに金融関係にお勤めの方が書いておられる記事が面白くって・・・何とおっしゃいましたっけ。もしご存知でしたら是非よろしくお伝え下さい」と。 「あぁ、彼ですか。はい、よく知っている友達です。そう言って頂けると、彼も随分と励まされると思いますよ」と、すっかりクラーク・ケント気取りだったのでした(フェードアウトする前にテレビカメラに向ってウィンクしていたことでありましょう)。 本当に不誠実ですね。

by oveja negra

と、いうことで、礼拝メッセージはこちらで聞いてください。


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by covenanty | 2010-05-03 00:14 | 教会行事・集会 | Comments(4)

最もすばらしい福音

今日はイースター、イエス様の復活を記念する日です。
聖書を読むようになるまでは、「復活」といわれても、何かおとぎ話のような、実感のないタワゴトとしか思えませんでした。 しかし聖書を通して、神様が人間をお造りになったことが心底理解できた時、それまで無関心に聞き流してきたことが、いちいち気になるようになりました。

たとえば、人間の持つ再生能力。人間の皮膚も内臓も日々細胞分裂による新陳代謝がおこなわれ、古い細胞は新しい細胞に取って代われ、数ヶ月もすれば人間の表面は全く新しい細胞に入れ替わります。 それでも古い細胞の後には、DNAの働きで全く同じ細胞が出来るので、全体として、ずっと同じ形で居られるのです。

考えれば、考えるほど不思議なメカニズムです。神様が人間をお造りになった時、人間は永遠に生きるものとしてデザインされました。確かにこのシステムが完璧に機能し続ければ、人間は永遠に生き続けていけたのです。人間に罪が入った時から、この自己再生機能は有限なものに変質してしまいました。人間のDNAはいつまでも同じ細胞を作り続けることは出来なくなり、身体の外側も内側も老化していくことになります。因みにDNAの働きに異常が起こり、それまでとは違う異質な細胞が出来ることが、進化論者が好きな「突然変異」であり、出来た細胞が回りの細胞に悪影響を与える場合、その細胞は「癌」と呼ばれます。それまで正常に働いていたものに、異常が発生する訳ですから、その異常が「より良きもの」をもたらす筈がありません。進化論者がこの「突然変異」に希望を持つくらいなら、無理をせず創造主の存在に賭けたほうがオッズは良いと思います。

このような人体の不思議を思うと、そしてこの人体は正しく神様がデザインされたものだということが判ると、肉体の復活も神様には出来ないことでもないのではと思えるようになりました。キリスト教に懐疑的だった法廷記者リー・ストロベル氏が『ナザレのイエスは神の子か』(いのちのことば社)で著している他、イエス様の復活については何人もの著者がチャレンジして、結果復活の事実を認めざるを得なくなっています。

もし、私達がこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私達は、全ての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。(Ⅰコリント15:19-20)

ところで、米国に住んでいた頃、食料品の買い付けは週に1回、車に乗って家族総出でスーパーマーケットに行っていました。キッチンにある大きな白い冷蔵庫に1週間分の食糧を貯蔵する訳です。一方日本社の会社員である私は相変わらず食生活が不規則なので、私がパスした夕食や家族の残りものが、どんどん冷蔵庫に(何せスペースがありますから)溜まる訳です。妻も私も根が小市民であるため、食べ物の無駄には心が痛みます。それで私達は毎週土曜日の夕食は、冷蔵庫の中にあるものを全て出して、野菜屑のスープというか、ごった煮というか、とにかく一旦冷蔵庫を空にするようにし、その時のメニューを「ご復活料理」と呼んでいました。冷蔵庫に棄て置かれた食べ物の残りが「復活」する訳です。思えば当時から随分エコロジカルな生活をしていたものです。 あっ、この話には勿論、ちゃんとオチがあります。

日曜日の朝、女たち(妻と娘)が白い蓋を開けると、中は空っぽで何も無かったのでした。

by oveja negra

では、礼拝メッセージをこちらで聞いてください。


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by covenanty | 2010-04-04 22:43 | 教会行事・集会 | Comments(1)