幸福論

最近ふとしたきっかけで、ヒルティの「幸福論」を読み始めている。

そこで、今日はその中から分かち合ってみたいと思う。

最初に、簡単にヒルティの人柄を紹介してみたい。ヒルティは

1833年にスイスで生まれた。母親は、軍医の娘で、熱心なクリスチャンで

あった。ヒルティは、いわゆるクリスチャンホームで育ち、大学では

法律を専攻し、哲学や歴史なども学んだ。その後、法学博士を取得し、

弁護士を開業した。法律家でありながら、ラテン・ギリシアの古典や

ストア主義哲学などにも詳しかった。そして、もちろん、彼自身も

敬虔なクリスチャンになった。

その後、大学の教授などをしながら、哲学的な本を書いた。

その本の一つが幸福論である。

幸福論の最初の章は、「仕事について」という題になっている。

人間の幸福を考えるときに、確かに、仕事の分析は欠かせないように

思う。なぜなら、仕事は、人生の中で最も多くの時間を使うもので

あるからである。ヒルティは、クリスチャンの立場から、仕事について

興味深い分析をしている。次回は、そのことについて具体的に

考えてみたい。

BY ダン吉

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by covenanty | 2010-05-19 08:11 | 哲学

信仰と哲学

今日は信仰ということと哲学ということについて考えてみたい。聖書の中には哲学という
言葉はあまりでてこない。私が知っている限りでは、使徒の働きの中に、ストア派と
エピクロス派の哲学者がでてくる。そこでは、彼らはパウロの説教を知的な興味のみで
聞いている様子が記されている。また、コロサイ人への手紙には、「だましごとの哲学」
という言葉が出てくる。それは、禁欲主義の哲学を指すことである。

このように、聖書の中にはそんなには、哲学という言葉が出てこない。しかし、哲学と
キリスト教というのは、よくつながりをもって語られることが多い。それでは、哲学と
信仰はどのような関係があるのであろうか。

過去においては、アウグスティヌスやトマスアキナスなどが、神学において哲学を
使ったという例がある。その意味で、キリスト教的哲学というものも存在すると言えよう。

ところで、この前、ハーベストタイムの中川先生という方が、神学と哲学の違いについて、
哲学は下から上の営みであり、神学は上から下の営みであるということをおっしゃっていた。
すなわち、哲学は真理というものを人間の側から探求するものであるが、神学は
真理は神から啓示されていてその啓示に基づいて真理を説くということである。
同じ真理の探究でも方向性が違うというのである。なるほどと思った。

すなわち哲学は、人間の理性で真理を探究しようとするので、常に迷っており、
結論というものには到底たどりつけないのである。そこで、哲学にはどんな意味があるのか
と言えば、人間は、いくら自分で考えても究極の真理にはたどりつけないということを
わからせるということがあるのではないかと思う。

その他に哲学の特徴を考えてみると、哲学はその名前の通りに、知を愛するということであり、
知識主義的な面がある。それに対して、信仰は知識が第一ではなく、神を知って
信じることが重要である。また、哲学の基本は疑うことである。しかし信仰の基本は
もちろん疑うことではない。

哲学において、人は大いに悩むことができるが、やはり、悩みっぱなしというのは
よくない。読者のみなさんで、まだ、信仰の世界を知らない方は、一日でも早く、
信仰による真理に到達してほしいと願う。

ダン吉

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by covenanty | 2009-02-04 08:03 | 哲学

哲学の限界

[哲学] ブログ村キーワード


また、大それた題名を書いてしまいました。しかし、たいしたことはありません。

本題に入ります。哲学も学問である以上、限界があることは当然だと思います。
どんな範囲で限界があるのでしょう。哲学は、どのようになされるのかというと、いろいろな考えがあるとは思いますが、基本的には、常識と思われることを疑うことでしょうか。デカルトなども、徹底的に疑った人でした。疑ってみることによって、新しいものが見えてくることが確かにあるような気がします。

また、哲学は分類と定義の学問であるともいえるのではないかと思います。これは学問一般に言えることかもしれませんが、必要な分類と定義を行ない、概念を規定することによって、学問というものは進んでいく気がします。哲学においては、概念というものが非常に大切なような気がします。

ところで、すべてのことが定義できるかといえば、そうとは限りません。定義することが困難な概念も存在します。そこの所に哲学の限界があるのかもしれません。
例えば、カントは純粋理性批判の中で、論理学において、「真理とは何か」ということを分析するのが非常に困難なことであると主張しています。つまり、哲学の中で、真理というものの分析は難しいということです。
また、ハイデガーは存在と時間の中で、「存在とは何か」ということを定義することが非常に困難であるということを認めています。存在の定義というものも哲学の中では難問のようです。

そこで、この、真理というものと、存在というものの共通点は何かと考えると、実はどちらも神と関係していることがわかります。
聖書を見て見ましょう。イエス・キリストは聖書の中で、「私が道であり、真理であり、命なのです。」(ヨハネ14:6)とおっしゃっています。ご承知のとおり、イエス・キリストは神そのものです。そのイエス・キリストが「私が真理である」と、おっしゃっているのです。真理は神そのものであるとおっしゃっているのです。神そのものであるから、論理学や哲学ではわからないのは、ある意味当然かもしれません。
また、旧約聖書では、神は、「わたしは『わたしはある』という者である。」とご自分のことをおっしゃっています。つまり「ある」とは、存在のことです。ここでも存在と神とが関係しています。ゆえに存在というのは、哲学的には難問であり、哲学の限界と言えるのかもしれません。
実は、

人生の目的や生きる意味も哲学を勉強することによって、明らかになることはないようです。やはり、人生の根本的なことは、私たちを造られた、神様からの啓示によらなければ、わからないのです。啓示による理解が与えられてから、もう一度哲学を考えてみる必要があるのかもしれません。



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by covenanty | 2008-11-27 09:36 | 哲学

今、少しずつではあるが、カントの純粋理性批判を読んでいる。
この本は周知の通りであるが難解である。何が難解かというと、一つ一つの言葉の意味がわからないから難解なのである。例えば「統覚」、「悟性」、「超越論的」、などという言葉が出てくる。統覚なんていう言葉も普段は使わないし、想像もつかない。悟性という言葉も私の知っている限りでは、カントの著作にしか出てこない。
それでも何でも読んでいるうちになんとなくカントの言っていることが少しだけわかるような気もしてくる。

そもそも、どうして純粋理性批判を読むようになったかというと、それは私の問題意識の延長上にある。
すなわち、私は社会科学に興味があるのだが、社会科学はウエーバーが言うように、価値中立的な学問であるといわれる。
つまり、社会科学自体は価値判断ができないのである。Aという政策とBという政策があるとして、それのどちらがいいのか悪いのかということを、純粋に学問的な意味では、社会科学的には判断するのが困難であるということである。それでは、価値判断とは何かと私は問い始め、哲学に興味を持ったしだいである。
そして法哲学や社会哲学の本を少しずつ読んでいるうちに、いろいろな所でカントの名前が出てくるのである。よってそうこうしているうちに、カントを理解したいと思うようになったのである。

カントは、キリスト教の影響を強く受けていることは確かである。
そして、「すべての思想はカントに流れ込み、またカントから出て行く」と言われるほどにすごい哲学者である。
カントは純粋理性について研究したが、純粋理性とは、「時間には終りがあるのか」とか「人間の霊魂は不滅か」というような問いを考える時に使われる理性のことであるらしい。
他方、実践理性とは、主に倫理道徳を考える場合の理性であるらしい。また、悟性というのは、時間や空間を理解する上での形式のようなものであるらしい。どうも純粋理性批判では、人間の理性が空回りを起こすことを分析し、そして、理性の限界を規定したもののようである。
カントの哲学は、カント以前のデカルトの合理論と、イギリス経験論を発展的に止揚して、ドイツ観念論を生み出した。いずれにしても、カントは理性の限界を規定したのである。

さて、キリスト教の信仰も、理性の限界を認めなければならない。
聖書をすべて理性で理解することはできない。
私達は、タイムマシンに乗って、聖書の事実を確認することはできないからである。
ある意味、理性を超えたところに信仰がある。
それは、理性を否定することではない。理性を神にゆだねることなのである。
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(聖書)
本当の信仰は、あなたの理性をきっと満足させてくれるはずである。




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by covenanty | 2008-11-15 21:04 | 哲学

時空の哲学の不思議

哲学の世界で、時間と空間のことについては、今まで様々な議論がなされているようである。一つの代表的な例が、カントの時間論、空間論であろう。それは認識における、形式としての悟性を形づくっているもので、具体的にはそれらは、客観的なものであり、絶対的なものである。もちろんそれらの関係においては、それぞれが独立しており、相互に関連はしていない。それに対応している理論はニュートンの物理理論であり、時間空間論であった。

 しかしこの問題は物理学のほうで、大変化を経験することになった。すなわち、アインシュタインの相対性理論が出てくることになったのである。この理論は、物理学の分野で大革命を引き起こした。まず、ニュートン力学が厳密な意味では正しくないということがわかったのである。そしてニュートン力学の前提になっていた、空間と時間というものが実は絶対的なものではなく、私たちが光の速度で移動することができた場合、例えば時間の進み具合に変化が生じるということなのである。相対性理論においては、時間や空間は絶対的なものではなく、相対的なものにすぎないということがわかってきたのである。そして、時間と空間も相互に関係しあっているというのである。

 私が考えるに、このアインシュタインの発見は、物理学的大発見であると同時に、哲学的大発見であったのではないかと考える。すなわち、哲学的な時間論や空間論にも革命的な影響を与えていると思うのである。しかしながら、私の知る限りでは、この哲学上の大発見に対する、哲学的な反応や、理論の再構築が十分に行われているのかわからない。この分野については、科学哲学を学ばないとわからないのであろうが、この時間、空間の劇的な変化は、哲学に非常に大きな影響を及ぼすということは事実であろう。

 以前に神と時間との関係についても論じたが、時間が相対的な環境にある以上、神が過去における時間にも何らかの影響を及ぼす可能性が出てくるような気がする。あと私が非常に興味深く思うのは、時間と空間が関連しているということである。それぞれ独立したものではないということである。そうなれば、時間と空間の間には、何らかの数学的関数が存在するはずであるが、それについても機会があれば、学んでいきたい。

いずれにしても、神のとっては時間というものは、しばられるべきものではなく、支配されるべきものなのである。「しかし、愛する人たち。あなたがたはこの一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」

Ⅰペテロ3章8節(聖書)  BY ダン吉

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by covenanty | 2008-03-15 15:15 | 哲学

神は存在するのか

哲学の中でも「神の存在証明」というものがある。論理的に考えると人間は一つの大きな選択をしなければならない。それは、「神が存在する」と信じるのか「神は存在しない」と信じるのかいずれかということである。日本人の多くは神の存在を認めていないか、認めていても、あまりこの世の中に大きな影響を与えることはない神を考えているように思う。あるいは、神道の神や仏の神などを信じている場合もあろう。
日本には創造主の神という概念がキリスト教以外にはない。日本人の多くが進化論を信じているので、その様な状況になっていると思う。進化論と創造論については、以前このブログで論じたが、このように素晴らしい能力を持っている人間が、偶然猿から進化してできたとは、とても思えない。何か偉大な存在がいて、その存在が人間をデザインしたとしか考えられないのである。それほど人間の体(特に脳)はすばらしくできている。科学の発達で、それはとても偶然には発生したとは思えないことが明らかになっている。
もし人間が造られたものだということを素直に認めるならば、創造主なる神の存在を認めることも比較的容易であろう。しかし、ここがなかなか難しい。日本人の多くが進化論から抜け出せないのである。人間だけではなく、自然のものすべてに目を向けてほしい。そうすると、それがどんなにすばらしくデザインされたものであるかということがわかると思う。そして創造主なる神はこれらのものを目的をもって造られたのである。創造主なる神を認めるときに、私達にも人生を生きる本当の目的がわかってくるのである。
日本の社会では、特に多くの若者が生きる意味を見失っている。それは、多くの者が進化論的な世界観に立脚していることの当然の結果のように思われる。生ける神を認めることは同時に人生の意味を見つけ出すことでもある。もちろんクリスチャンになった私も、時々神のことが見えなくなることがある。しかし、聖書を読んで祈る時に、神のことを感じることができるし、自分の人生における神の介入と働きを認めることができる。
神の介入ということで、私達日本人が見逃しやすいのが、「運がよかった」という言葉である。何か見えない力が働いて運良くよい結果がもたらされたという経験はだれもがしたことがあるであろう。普通の日本人はそこで「運がよかったね」という言葉を使うのであるが、神を認める立場からすると、それこそが神の働きであり、神の存在の証拠なのである。私自身も人生の節目において、神の介入を認めざるを得ないことがある。普通の日本人だったら「運がよかった」と言って片付けることの中に神の大いなる働きが隠れていることがあるのである。
神の存在を認めていない方も、自然をよく観察して欲しい。そして、自分の人生の中で「運がよかった」と思えたことをよく吟味して考えてほしい。きっとそこから神の存在が見えてくると思う。そして、その上で聖書を読んでみて欲しい。神の介入とその存在をリアルに感じられる人生に変わっていくことができると思う。
「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」聖書 使徒17:28

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by covenanty | 2008-02-15 18:09 | 哲学

ヘーゲルとキリスト教

 ヘーゲルはドイツ観念論哲学の中心的存在である。ドイツということで彼もキリスト教の影響をたくさん受けている。彼はテュービンゲン神学校に通い、神学を学んでいる。そして哲学者シェリングと友好を深めた。しかし、結局牧師にはならず、哲学の方へ考えが向かった。哲学の中でも、大衆哲学を好み、哲学の内容を大衆に伝えることに主眼をおいていた。
宗教的なことについては、ヘーゲルの歴史哲学講義の中で、世界精神によって、歴史が動いているというような考えを持っており、キリスト教の神に近い概念を使っているのではないかと思う。ヘーゲルの関心は、個人よりも社会にあったように思われる。世界精神は、マルクス主義のように神を否定するものではないと思われる。しかし、ヘーゲルの思想がマルクスに影響を与えたのを考えると、世界精神というものは、マルクスの考え方に近いともいえよう。
彼の弁証法の考え方にしても、キリスト教的歴史観からすると、少し機械的すぎるのかもしれない。また、ヘーゲル哲学の特徴として、その範囲の広さがあげられる。社会を一つの統一体としてとらえることを、視野に入れていたと思われる。その内容は、精神、法、宗教、歴史、美学などに及んでいる。ヘーゲル哲学は難解だといわれるが、歴史哲学に関して言えば、体系的で、捉えやすい面がある。ヘーゲルの宗教観は、キリスト教がやはり基本にあって、そこから議論がすすめられていることがわかる。
「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座について、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれをなしとげる。」聖書イザヤ9:7 世界精神と呼んだヘーゲルの考え方は、この聖書の箇所にあるように万軍の神を意識した記述であったであろう。 BY ダン吉

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by covenanty | 2007-09-08 10:15 | 哲学

因果律について

Ⅶ 因果律について
 哲学的には因果律というのは、よく話題にのぼるテーマだと思うが、ここではやはり、全てのものの、原因は何かということであろう。キリスト教的に言えば、神は永遠のお方なので、すべての原因は神から来るということになるが、神は善なるお方であるので、悪の原因になったものの分析が必要である。悪は神が原因になっているのではなく、サタンが原因になっている。したがって、善と悪と二つの原因がこの世の中に存在するのである。
 さて、因果律にはその前提とされている過去→現在→未来という「時間」の流れがなければならないが、「時間」についてもその哲学的分析が十分でないので、因果律も完全な形で定義づけることはできないようだ。因果律が定義不可能の場合、タイムマシンができる可能性があるらしい。逆に因果律がきっちり定義できれば、タイムマシンの存在は否定される。また多くの科学がこの因果律を暗黙の前提にしているので、これを否定することは難しい。
 この世の中では善と悪と二つの原因が存在するわけである。そこから因果律にしたがって、歴史は進んでいくのである。アインシュタインが相対性理論を導き出したが、そのことも因果律に大きな影響を与えた。彼によって、時空連続体という概念が作られた。またこのことで量子力学が発展していった。
 古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、すべてのものの原因を4つのものに分けて分析した。質量因、動力因、形相因、目的因である。また、イギリスの哲学者デービッド・ヒュームは、その著作「人間本性論」を書き、因果関係について分析を行っている。そしてその因果の関係を4つの類型に分けた。1.因果関係について 2.因果の推論について3.因果の原則について4.必然性についての三つの疑問。ヒュームは原因と結果の関係は4つあるとした。しかし、彼は原因と結果との間に、必然的な結びつきがないとした。一般に、原因の後に結果が生じるということは、人間が経験的にそのことを認識しているだけであって、そこには必然性がなく、蓋然性しか存在しないと論じた。このようなヒュームの思想はカントに影響を与えている。
  このように原因と結果を論じていくと、広大な哲学的難問にぶち当たるのである。しかし、キリスト教では、すべての根本原因が父なる創造主の神であるということがはっきりしているから、そのことによって、因果律がある程度説明できると言えよう。
「初めに、神が天と地を創造された。」創世記1章1節 ここにすべての根本原因が書かれている。    ダン吉

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by covenanty | 2007-08-22 13:42 | 哲学