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哲学的考察 時間について

 さて、時間についての考察は、哲学の中でもカントやハイデガーの中などに見られるが、まず時間の性質の分析がキリスト教に与える影響について考えてみたい。第一にすべての物は時間の制約を受けるのかという問いがある。その問いの中には、時間には果たして始まりと終わりとがあるのかという問いが含まれる。さらに、神は時間を越えて存在するお方かどうかという問いもある。神が時間に支配されずに、永遠の昔から存在していたということは、聖書の主張である。しかし、時間に制約されずに存在することは、果たしてできるのかということは、一つの問題である。また、時間にも終わりがあるのかという問題も大きな問いである。聖書によれば、神の国は永遠に続いていくのだから、時間に終わりというものはないと結論することもある意味可能かもしれない。理性的に考えるとあるものが存在するということは、終わりがあるとも考えられるが、時間というものの性質上、なかなか難しいことかもしれない。
 
もし、神が時間を越えて存在しているのであれば、未来のできごとを変える権限をもっておられると考えるのが妥当なことである。10年後の祈りに今聞いて、答えを出してくれることもあるのである。しかし、いくら神でも、過去のできごとを変えることは不可能であるということが結論できる。過去というものは確定してしまっているからである。したがって、神であっても過去に介入することはできないと考えられる。ただし、未来の状況を変えることによって、過去の解釈を変えることはできると思う。人間は現在の状況から、過去の存在意義を否定したり肯定したりできるからである。しかし、神は本当に過去の状態を変えることは不可能なのか。私はまだ哲学的に結論づけることはできないでいる。
 
聖書の中に「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」(新約聖書第Ⅱペテロ3:8)という言葉がある。神の前では千年という時間もほんの少しのようなのである。神の時間軸は人間の常識をはるかに超えているのである。
 
時間と同じように、神は空間にも制約されるのかという問題もある。空間も時間と同じ哲学的問題が生じると思う。この問題についてもカントがするどい分析をしていると思われる。引き続きカントの著作をもっと読んでみたいと思う。(カントの著作は難しい!)今日はこの辺で。
                                          ダン吉
by covenanty | 2007-05-31 21:39 | エッセイ